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人が死に際に残す言葉というものは、人が生きている中でそんなに多く聞けるものではない。
むしろ、他人の死に際に一回も立ち会ったことのないまま、自分の死に際を迎えてしまうケースが大多数を占めるのではないだろうか。
ここは長崎や横浜のような巨大な港町とは違い、夜になると海が奏でる静かな波音と木の茂る葉音だけが聞こえる小さな一漁村。
早朝の3時頃、港の方ではたくさんの船が放つ野太いエンジン音が木霊する。
その音はしばらくすると止んでしまうが、変わって港の方が騒がしくなる。
陸から煽る風が海面に大小の波を起こす。
漁師たちはそれをものともせず、巧みに船を操り、獲物を捕えていく。
荒波を越えて戻ってきた漁師は、敵地から帰ってきた兵隊にも似ていた。
太陽が山の天辺から顔を出した。
風は陸風から海風に変わる。
どこの家からもみそ汁の臭いが漂ってきた。
あれだけ慌ただしかった港は、魚のにおいを残してさっぱりしたものになった。
今から港町ではゆったりとした時間を刻む一日が始まる。
「なあ、今日25日やで。」
窓際の席で外を眺めていた如月慧は、声のする方に首を傾けた。
「伝ちゃん、そんなこと言わんくても分かってる。」
「金曜日や金曜、月末の金曜や。」
前の席に座った橋伝汰は、慧の言葉にニカリと笑っている。
伝太がこんな顔をしているときはいつも、何か良からぬ悪戯を考えているときだ。
今までにも伝太は、海神の祀っている神社の鐘をもぎ取ったり、廊下にたっぷりの海水を撒いたりと、いろいろな悪行を重ねていた。
いつも嵐のように突然やってくる伝太の悪戯は、子供の僕たちでさえも想像もつかず、それにも増して大人たちは困り果てていた。
だが今回に限っては、慧はその悪戯の内容を知っていた。
というよりも、その悪戯に関与することになっていた。
「慧、まだ時間まで十分あるけど・・・緊張してるか。」
言われて、悪戯することを想像した慧の胸は、早くも高鳴っていた。
しかし、「そんなことあるか。」と、見栄を張る。
「ほんまか。」
「ほんまや。」
伝太はいきなり慧の腕をつかむと、自身の胸に当てさせた。
・・・ドクドクドク・・・
伝太の中を駆けめぐる速い鼓動。
「俺は、今日のこと考えただけでもう、こんなや。」
伝太は、はにかんだ。
「慧・伝。次、掃除の時間だよ。早く片付けて。」
同じクラスの女子の声が遠くに聞こえた。
「じゃ、またな。」
伝太は、慧と別れると女子の声も無視して教室を出ていった。
空は茜色に染まり、その中を海猫が2羽ゆったりと飛んでいた。
周りの家々からは、夕食の香りが漂っていた。
慧と伝太は、学校で拾った石ころを互いに蹴り合いながら、ゆっくりと家路に向かっていく。
「なあ、もうすぐやな。」
「・・・そうやな。」
ほとんど同じ方向にある家なのに、こんなにして2人で一緒に帰るのも珍しい。
石を蹴り飛ばしてしまった伝太が、慧の影を踏みにきた。
慧はそれをかわし、伝太の影を踏みしめる。
互いに混じり合っては離れ、また一つになっていく影。
夕焼けは、そんな2人を暖かく包んでいた。
「慧、ご飯まだ?」
最後に残しておいたハンバーグを口に頬張った慧は、台所へ食器を持って行った。
台所では母の涼子が、食器を洗っていた。
「ねえ、お母さん。お父さん、今日はうちにいるの?」
胸の辺りから尋ねてくる慧の顔を見て、涼子は優しく笑った。
「いるわよ。ずっと部屋に。」
襖を開けると、テレビの前で父の公平は一人晩酌していた。
すでにほろ酔いの父は機嫌が良い。
たぶん今日は阪神が勝ったのだろう。
「お父さん。」
慧の声に、公平は後ろを振り返った。
「おお、慧か。こっち来いよ。」
慧は公平の胡座の上に乗った。
「お父さん、今日漁はないの?」
「ううっ、ないけど。それがどうした。」
「いや、なんでもない。今日はずっとお父さんと一緒にいられるからうれしいだけだよ。」
それを聞いた公平は慧の髪をくしゃくしゃにする。
「今日はずっと遊んでやるからな、慧。」
慧は小さな後ろめたさと大きな興奮を隠したまま、公平に精一杯の笑顔を見せた。
この町は以前から第4週の金曜日は漁をしないことになっていた。
それは給料日だからというちゃんとした理由がある。
日頃疲れた体を休め、新たに気を養うということもあった。
ただ、この誰も船を動かさない第4週の金曜日に限って出航する船もあった。
それは真夜中一回だけ汽笛を鳴らす船。
その汽笛は、普段以上にもの静かな夜の町によく響いた。
低く伸び上げ、風に絡む悲しい音色。
慧はこの船の存在が気になっていた。
一日だけ出港していったい何をしているのか。
ちゃんと帰ってくるのだろうか。
見てみたい、その船を。
そして、あわよくば乗り込んでみたい、その船に。
そんなことを考えていたのは、慧だけでなかったのが分かったのは、教室でのことだった。
「先生。」
ある時、振り向いた先生に伝太は、こう言った。
「この前の金曜日、船見にいったんやけど、先生。あの端っこに置いてある船だったんのは分かったけど、あれ何に使うてるんですか。」
先生は、驚きのあまり目を丸くしていた。
「何か悪い事でもあるん?先生。」
この町には、第4週の金曜日に関して、もう1つ重大な約束事のようなものがあった。
それは『第4週の金曜日の晩は絶対に外に出てはいけない。』という規律。