毎日一つのショートショート

0929
【断り】この作品は現在執筆中の大変支離滅裂で、危険な作品なので、それを承知の上できれば読まないでいただきたい作品です。





           『0』





5月某日 天候 雲底定かでない乱層雲が空一面を覆い尽くし・・・









安田浩三郎 53歳 自衛官


ポツリポツリ。雨はやってきた。雨粒が一つ、すっかり薄くなった頭皮を弾き、そこで安田は初めて雨の存在に気付いた。右手を差し出すとそこにまた一つ雨粒が落ちた。
半田沼駐屯地。都市部の近郊ではあるものの比較的長閑な山間部に位置する自衛隊関連施設の一つである。






佐藤恭志 44歳 会社員


恭志は靴ベラを手にした。先日、量販店で買ったばかりの革靴はすでに玄関に並べられている。堅さの残る靴の踵部分に靴ベラを宛がい、足先を靴の型に納めた。履いてみると外側から圧迫する感じは否めないが、それでも新品特有の革の香りに恭志は顔を綻ばせた。
「行ってきます。」
しばらくして、奥のリビングから「行ってらっしゃい。」と妻の声が聞こえた。
玄関を出て見上げた空は、すでに暗雲が立ち込めていた。今朝の天気予報では今日一日雨模様の不安定な天候だといっていた。折り畳み傘を鞄に仕舞い込み、恭志は静かに玄関戸を閉めた。
恭志の住んでいるマンションは、時人舵駅から徒歩3分ほどの場所にある。価格と立地条件の比較的富んだこのマンションは、同僚からも羨望されるところであった。防音加工された室内には、駅周辺部の騒音など全くもって聞こえることはないし、エントランスのセキュリティーに玄関の施錠もほどほどにしっかりしていた。都市部だけあって排気ガスや生活臭は酷いものの、その程度のことを除けば不都合自体まるで感じられなかった。
恭志を乗せたエレベータが1階で止まった。エレベータが開くと、恭志は中央に調度品が飾られたエントランスホールを抜けだし、ぞろぞろと駅前に向かう混雑した人通りの中に身を預けた。
マンションから100メートルほど歩き、交通量の多い巨大交差点を抜けると、眼前には時人舵駅の特徴的な赤煉瓦風情の建造物が聳え立っていた。駅敷地内に入り、入り口付近にある昇りエスカレータを使い2階へ上ると、長さ500メートルほどの茫洋で白く眩しい廊下に辿り着いた。そこから人の流れは二通りに分断していた。一方は手前にある急行用の改札口、もう一方は奥に存在する新幹線用の改札口。2つの改札口はそれぞれに慌ただしい乗客でひしめき合っていた。急行を使う恭志は手前の混雑に入り込むと、改札口へ繋がる5つの列の中、迷わず一番左端に並んだ。これといって拘っているわけでもないが、恭志は毎日の習慣から時人舵駅の改札口は必ず左端を選ぶことにしていた。いつ頃からそう決めたのか、恭志自身甚だ記憶にないのだが。ただ尤もな理由を付けるとすれば、左端から外れることで恭志にある一日のリズム・運・方向性が大幅に狂ってしまいそうな事態を小さく恐れていることも確かだった。改札口を通過すると、最近よく見かける男性駅員が小窓から顔を覗かせ、軽い会釈をしてきた。30手前に見えるその溌剌とした笑顔に恭志はふと心が和んだ。こうしたよく見かける駅員の挨拶は恭志にとって小さな楽しみの一つとなっていた。特に向こうがこちらに気づいて、積極的に声を掛けてくれる場合など何かと気分も優れ一日を良い気持ちで始められた。駅員にさり気なく会釈を返した恭志は、少なからず余った時間を潰そうと駅構内のコンビニへと入っていった。
気がつくと時計の針はすでに発車時刻の3分前を指していた。恭志は読んでいた雑誌を慌てて放り出した。恭志が乗る菖蒲谷線の急行はここから少し距離を置いた5番ホームにあった。3分前という時刻は列車が出発するか否かの際どい時間帯であった。コンビニを飛び出した恭志は、全力で駅構内を駆けだした。5番ホームの看板が見えた辺りで、恭志はちらりと時計に目をやった。発車1分前。5番ホームの様子を伺った。まだ、かなりの混雑模様のようだ。状況から推測すると少しばかり列車は遅れているようにも見える。この推測も半ば切願に近いものではあるのだが。恭志は5番ホームに続く階段の手前まで来た。下を見下ろすと、階段部分にしてすでに相当な混雑があった。
通常とは少し違う風景。人混みを器用にすり抜けた恭志は階段中断部から覗ける光景に安堵しつつも、また一方で悪い予感を胸に抱いた。プラットホームはすでに待ちくたびれた乗客で飽和状態だった。殆ど隙間がないと言っていい。タラップギリギリのところで、駅員は自らの体が線路上に押し出されないように踏ん張るのが精一杯なようで、その様子は恭志のいる場所からも見て取れた。混雑の中にいる乗客はみな一様に眉間に皺を寄せ、口々に雑言を漏らしていた。
「どうなってんだ。もう何分遅れてるんだ。」
「ちょ、マジ最悪だし。これなに。」
「おい、どうなってるんだ。」
「駅員さん、ちょっと着てよ。」
「すみません。」
プラットホームの所々では駅員と乗客が互いに揉めていた。あるところでは口論の内容が恭志の耳にも届くほど大きな罵声がとどろいでいた。その罵声の大半は囲んでいる乗客のものであって、駅員はひたすらに平謝りに徹しているわけだが。
恭志の上の段にもますます人が集まってきた。人が人を押し合い、ある程度あった隙間も大分満たされてきた。突然上の様子が騒がしくなった。
「すいません。ちょっと通してください。すいません。」
聞き覚えのある声に恭志は振り返ると、改札口で挨拶を交わした例の駅員が、ホームに続く階段を下って行くところだった。
「なんで、列車来ないんだよ。」
「はい、いま向こうと連絡をとっていますので。」
「で、いったいどうなってるんだよ。俺たちちゃんと間に合うのか。えっ。」
「こちらも早急に対応いたしておりますので、しばらくお待ちください。」
「間に合わねえだろがよ。」
駆け下りていく駅員に数人の男性客が罵声を浴びせかけた。
例の駅員は笑顔をキープしているのもやっとといった様子で、ひたすらに頭を下げながら階段を下っていた。暴言雑言の応酬の中、駅員は恭志の前を通過する際も客一人の存在など気にも止めないまま、いそいそと階段を駆け下りていった。恭志は呆然とその様子を眺めていた。少しばかり彼に同情心を抱いたのも束の間、駅員が駆け抜け空いたスペースを使って、上から男性客が勢いのまま雪崩れ込んできた。これには堪らず恭志は呻いた。抵抗の余地はなかった。恭志は流れに巻き込まれるがまま、しばらくしない内にプラットホーム中枢部へと押し流されていた。
やっと立ち止まったところで、恭志はほとんど身動きが取れない状態にあった。周囲は学生にOL、サラリーマンに私服諸々と色々な職種の人々が見てとれた。それらの人々が立ったままほとんど動かず、みな険しい表情で今いる状況に耐えていた。
『確かに朝一番のラッシュ時に列車が来ないというケースは、客の側からみても、はたまたJR側からみても、非常に都合の悪い惨事に違いなかった。駅員を囲むように威圧を掛ける客勢に、恭志は辟易した。事態の収拾は他のところで行われているのであって、一介の駅員に怒鳴りつけても何の意味も成さない。もう少し闊達さを見せて欲しいものだ。
恭志は争いに自身が巻き込まれないように、そっとその場を離れた。』
ふと恭志は自身が立っている場所から5メートルほど奥まったところに、売店があることに気がついた。その売店はスポーツ新聞でも買おうかと、密度の高い人混みの中に分け入ったものの身体は一向に前に進まない。ようやく売店にたどり着いた頃には、恭志の背広の型崩れしていた。
「おばちゃん、おはようございます。」
「あらっ。どうも、おはようさん。」
以前聞いた話では御年76になるらしい、目の前の老媼はこの売店の看板娘といったところである。馴染みの客の顔はすべて覚えているらしく、恭志もその中の一人であった。恭志がレジにスポーツ新聞を置いた時点で、おばちゃんは慣れた手際で弁当の梱包を紐解いていた。
「大変ですね。今日は。」
混雑で売店から一歩も動けず何もできない恭志は、暇がてらおばちゃんに話しかけた。
「ええ、今日はこんな混雑でしょう。お客さんは大変ね。わたしは別にここに座っていつも通り扇風機に当たっているからどうってことないんだけどね。」
確かに、狭苦しい売店の敷地内とはいえ、今のホームの状況に比べれば、ずっと居心地が良いように思えてくる。
「あの、」
恭志は悪い想像を頭に浮かべた。先月起こった列車脱線事故のニュース。甚大な被害そのままに生々しい映像が何日にも渡りテレビで報道されていた。当初は事故の凄まじさに目を奪われ興奮するものもあったが、後に現れる被害者の遺族の衰顔を見ると、興奮していた自身に著しく自己嫌悪を催したことは今でも覚えている。
「また何かの列車事故ですかね。」
周囲を見渡すと何人かの学生・サラリーマンが携帯に話し込んでいる最中だった。恭志には見えない場所からも、連絡を取り合う声があちこちで響き渡っていた。みな一様に忙しなく、今置かれている自分の状況を早口で端的に説明している。時間が経つ内に辺りの喧騒もますます増大の途を辿っている気がする。そんな状況下、階段付近で起こった一際大きな怒声が恭志の周辺部にまでとどろいだ。
「おまえ、俺たちは乗客なんだぞ。えっ。」
先ほどいた場所から更に熱の篭った罵声が上がっていた。遠くから窺い知ることは困難だが、それでも恭志が元いた場所では駅員を中心に鬱憤を抱えた人々がサークルを作っていることは容易に想像できた。
「おい、この前のJRの失態も今回のも同じじゃねえか。」
今にも暴動が起こりそうな気配だった。ジリジリに焼けるような怒りが遠目からでも伺えた。あの笑顔の駅員が人々に足蹴にされる。殴打されるという構図。それもあと少し経てば現実のものとなっていたことだろう。人々の臭気と感情が綯い交ぜたプラットホームで、それは唐突に右側から発された。
「・・・・・・列車が来た。」
プラットホームは静まり返っていた。それは刹那に過ぎないものだったが、その一声はホームの端まで響いた気がした。やがてホームの右側にいた人々が次々と、歓喜を含めた声を上げ始めた。
「列車が着たぞ。」
「列車が着た。」
「こっちに向かってくる。」
「本当だ。こっちに来る。」
「やっと着た。」
恭志のいる場所からその様子を伺うことはできなかった。ただホームの右手から発生したざわめきは瞬く間にホームの端の方まで伝染し、人々はそれぞれに興奮や落胆に包まれた声を発していた。人々の喧騒は恭志の耳にも届いた。列車が線路上で奏でる独特の金属音「ガタンゴトン、ガタンゴトン・・・」は喧噪により恭志の耳元に届かないものの、ホーム右手の人々の声の度量で、確かに列車は駅に近づいていると推察することはできた。
「はあ、これでしばらくは休めるわ。」
後ろで売店のおばちゃんが一人呟いていた。
喧噪が立ってから1分ほど、ゆっくりとした動きで列車はホーム内に入ってきた。列車が姿を現して最初に動き出したのは、階段の方で待機していた数人もの駅員だった。只でさえいつも以上に混雑しているプラットホームで、駅員は乗客が線路に落ちないよう体を張って床の黄色いラインの中に押し込まなければならない。元からラインに待機していた駅員と力を合わせ、懸命に乗客を押し込む様子が恭志の目には映らなくとも想像できた。恭志の前には180近い身長の男子高校生の団体が存在していた。身長160後半の恭志の視界からは、ただ人の群れしか映らない。押しつぶされそうになるのを懸命に堪え、恭志は列車の扉が開くのを今か今かと待ち焦がれていた。後ろに属する恭志の周辺はみな一様に同じ思いでいたはずだった。この窮屈なホームにいる以上誰しもが普通に思うこと。恭志はただそれを切実に願っていた。
ちらりと時計が目に入った。8時13分。恭志はその時刻を頭にしっかりと刻みつけていた。それは自棄に中途半端な時刻。秒針は3/4辺りを彷徨っていた。そのことが妙に恭志の頭に張り付いていた。


「逃げろ。」


金切り声と共にポツンと囁くような第一声。あまりに後ろが騒がしい中、それは唐突に人々の声に紛れて恭志の耳にも入ってきた。当初、恭志は幻聴の類だと思った。スポーツ新聞を右手に握りしめ、左手で鞄を抱えたまま恭志は出発の準備に備えていた。周囲も似たようなものだった。周囲の喧噪も相変わらずだった。依然として何も変わったところは見られなかった。
続いて、


「逃げろ。」


恭志の耳に違和感が走った。頭の中で静かに回りながら浸透していく第二波。
「・・・・・・・・・逃げろ?」




「逃げろ。」




今度は悲鳴を成して津波のような大きさで前方から溢れてきた。
「逃げろ」
恭志が与えられた時間は皆無だった。前方の人波が揺らめくのを見たとき、恭志は体を引きつらせた。人波が無尽蔵に押し寄せてきた。それは瞬時で、一刻の猶予も与えられないものだった。恭志の前に聳え立つ男子高校生の体躯が、容赦なしに恭志を押し潰し始めた。恭志は堪らず後ろに逃れようと体を反転させた。瞬間、買ったばかりの革靴が片方すっぽ抜けた。先日購入し、今日初めて履いた黒の革靴。「あっ」と呟いた。その時恭志は、すでに石畳の上に叩き付けられていた。恭志は転ぶ最中、体を反転させてその映像を目にしていた。恭志が転んだその上を人々が蹴躓いて、石畳の上に体を打ち付けていく。そのまた上を通ろうとした人が足を滑らし、恭志の体に叩き付けられていく。そのまた上でも同じように、人が人を押し潰していく。
辺りには血が溢れ、喧噪は耳を劈くほどの甲高い悲鳴へと代わり、わめき声、泣き声、苦悶、悲鳴あらゆるものが綯い交ぜて、プラットホームを包み込んでいった。
恭志が最後に覚えていた景色は、駆け出す人々の中、しゃがみ込んで泣いていた4,5歳児が後から来た駅員に抱っこされて連れてかれる。駅員はいつも挨拶を交わしてくれたあの駅員だった。
「駅員さん・・・」
恭志は苦痛に歪んだ顔で小さく微笑むと、積み重なる人山の底辺で静かに瞳を閉じた。





荒田宏美 18歳 学生


電車の圧迫感にも大分慣れた。昔、想像していた通りの都会