雨憑き

 




            『雨憑き』





外はいつになく激しい土砂降りだった。いつもは教室側の窓辺から窺える高層マンションも、今日に限っては雨のカーテンに遮られていた。教室に響き渡る雨音が、いつものそれとは勝手が違い、教室中に激しく叩き付ける。教室全体の空気は、一見静寂さを保ってはいるものの時折、そわそわした形容しがたい期待感に静寂を掻き回される、そういう空気をわたしは鋭敏に感じ取っていた。
教室の引き戸が鈍い音を立てて開いた。「先生、授業中ちょっとすみません。職員室に来てください。急ぎの用です。」眼鏡のずれた先生は、そう言い残すと、慌ただしげに教室を去っていった。
それまで算数の授業に取り組んでいた先生は、走り去る先生を見送った後、徐に机の上にあった教科書類を纏め、「みんな、そういうことだ。先生が帰ってくるまでは静かに自習してるように。」と言い残し、眼鏡の先生に続き、教室を去っていった。
引き戸が閉まってしばらく経ち、教室内の雰囲気は、にわかにザワザワと渦を巻き始めた。数人の男子は勢いよく立ち上がると、駆け足で窓辺の前に集まり、外の様子を眺め始めた。男子の目は誰もがいつになくギラギラとしている。窓辺の誰かの手によって、いきなり窓が開け放たれた。すぐさま突風と共に激しい雨が吹き込んできた。「キャッ」と窓際の女子が叫ぶ。ゲラゲラゲラ・・・と窓際にいた男子たちが悪戯っぽく笑った。しばらく開け放たれた窓からは、雨特有の湿った臭いと、いつにない異常な雨音が共に教室に流れ込んできた。
「さっちゃん。」
顔を上げた。前の席に座る友人のアミちゃんは、いつもとは違う教室の雰囲気に顔を赤く上気させていた。
「雨、すごいね。」
「そうだね。」
「あのさ。こんな天気でだよ、先生たちが緊急に職員室に集まるっていったら、もう本当に一つしか考えられないよね。」
「うん。」
臨時休校・・・今や教室中が同じことを考えていた。親しいもの同士グループを作っては、笑いを交えて、臨時休校の話題で盛り上がっている。
「臨時休校か・・・」
「うん?・・・さっちゃん?溜息なんかついて、どうしたの。」
不思議そうにアミちゃんは小さく首を傾げた。わたしの応答に幾何かのマイナスを酌み取ったようだ。
無理もない、わたしは思った。
わたしの家は両親共に外働きで、今の時刻に帰ったとしても、家には人っ子一人いやしない。以前、腹痛で早退したわたしは、早々に帰り着いた誰もいない薄暗い部屋の中、存在しないはずの虚像の世界に、彷徨ってしまった感覚を味わったことがあった。次々と頭を過ぎる異世界の空想。更には、無人の空間で孤独に押し潰されてしまいそうになる自分。箪笥の隙間からひょろっと青白い手が伸びてくるかもしれない。どこからか誰かが私を覗き見しているかもしれない。薄暗い廊下から、知らない何かが顔を覗かすかもしれない。「・・・いやっ」わたしは、わたしの中で次々と巻き起こっては、消えず更に発展していく空想の産物にとてもじゃないが耐える事が出来なかった。泣いて家を飛び出した私は、お腹が痛いのを堪えながら、ずっと外で両親の帰宅を待ち続けていた。そういうことがあった。
本当のところわたしは、このまま学校に残っていた方が良かった。一人であの家にいるのは正直つらい。
幸い、長々と降り続く雨は、少し前辺りから落ち着いた感じを見せ始めていた。ゴーゴーがザーザーぐらいに。滝が梅雨時の雨ぐらいに。それだけに、わたしは強ち自分の望み通りにいくのではないかと、クラスの雰囲気を考えれば、おくびにも出せないことではあるが、心に念じ、硬く天に祈りを捧げていた。
「少し小振りになってきたぞ。」「ええー」
周囲から落胆の声が漏れる中、ガラガラガラと引き戸の開く音と共に、颯爽と先生が教室に現れた。
「コラッ」。先生の一声にみなは驚き、いそいそと元の席へと散らばっていった。みなが一通り席に落ち着くと、教室はやや静けさを取り戻し、その中で先生はなんとなく二つ咳払いを零した。教室は雨音だけがやけに木霊して、その中でもわたしの憂鬱はわけなく過剰な期待感と興奮に押しつぶされていた。
先生は徐にチョークを手に取ると黒板に向かって手を動かし始めた。
「先生?」「先生、臨時休校は・・・」「先生。」
生徒たちの声を無視したまま、先生は黒板にチョークを滑らせ続けた。
ハー・・・、クラスの所々から、落胆の溜息が漏れ始めた。
クラスがひっそりと静まりかえり、みなパラパラと教科書を捲り始める。
「やった!」クラスではわたしだけ喜ぶ状況で、先生ははたとチョークの書く手を止めた。
わたしのぬか喜びはほんの数秒間で終わりを告げた。
顔を上げたクラスメイトの顔が歓喜の色で染まる。
「今日は臨時休校だ。以上」
教室が異様に沸き立つ中、黒板に書かれた臨時休校という文字に、私は一人小さく落胆した。





「はい、しっかり列を作って。おい、そこ。傘持ってるか。」
みな一様に列を成し、みな一様に雨合羽や傘などで雨対策は万全のようだった。
「さっちゃん、さっちゃん。さっちゃんは城北地区でしょ。こっちだよ。」
アミちゃんに手を引かれるまま、わたしはカラフルなレインコートが列を成す城北地区に取り込まれた。
城北地区は、川沿いに形成された住宅地が立ち並び、多くの生徒を抱え、必然的に担当する先生の数も他の地区に比べて多くなる。更には、今回に関していえば、川沿いに近い城北地区は最も帰路としては危険なコースにあたり、生徒の興奮とは裏腹に先生たちは隅の方で徹底したミーティングを行っていた。
「ねえ、さっちゃん。」「うん?」
わたしは少ししょぼくれた顔のまま、アミちゃんの顔を見上げた。アミちゃんはピンクのレインコートに傘は同じくピンクのキティーちゃんで統一されていた。
「さっちゃんのうち、確か、おとうさんもおかあさんもいないんだよね。」
「・・・・・・うん。」
わたしは俯き加減にその問いに応じた。自然と力のない声だった。アミちゃんはしばらく考えるように首を傾けたまま、腰に手をやり、続いて閃いたとばかりに、私にキラキラした笑顔を振りまいた。
「今日、アミの家に泊まってかない!」「えっ。」
アミちゃんの家に・・・。
「アミもさっちゃんと遊びたいしさ。ねっ。どう?」
正直凄くうれしかった。アミちゃん家なら、あんな一人で怖い思いもしなくてすむ。それに、アミちゃんとも気兼ねなく遊べるし、アミちゃんのお母さんのお菓子もご馳走になれるかもしれない。
「いいの。」
わたしは期待をオブラートに包んだままそれとなく訊いた。
「いいよ、本当。じゃあ、決まりね。決まり!さっちゃんと今日は遊べる♪」
アミちゃんはくるくるとその場で小躍りをした。レインコートが綺麗な円を描き、アミちゃんの笑顔は可愛く華やいだ。愛らしさが辺りに漂っていくようだった。アミちゃんの屈託のない笑顔に、私も自然と笑みが零れた。(続く)