・・・恐怖症

       






               浮浪者





「教授。」
「はい、・・・なんでしょうか。」
「教授は、今から私をどこへ・・・連れていこうというのですか。」
早坂葵はそれとなく訊くことにした。行き先も分からないまま、ひたすら蛍光灯の光が反射する廊下を進んでいくのは、少しばかり緊張を伴ってしまう。たとえそれが信頼できる教授の隣だったとしても、やはり行き先は教えて頂きたいものだ。
「着いてからのお楽しみ・・・・・・というわけにはいきませんかね。」
「出来れば教えて頂きたいものです。」
穏和な声にはぐらかされまいと、葵は懸命になる。
「ははは。」
葵の隣で、自身の白髭を撫でつける老齢の白衣、水谷孝三は、隣で戸惑う葵をからかうように、小さく笑い声を上げた。
「教授。」語尾が強めになった。
「まあまあ、葵君、かっかしないで。もうすぐそこだよ。」
水谷は穏和な笑みを湛えたまま、徐に前方を指さした。
葵は立ち止まり、水谷の指先が指す方向を見つめる。
「エレベータ。」
「・・・分かってましたよ、教授。」
葵は小さく溜め息を漏らした。





エレベーターは順調に下降していた。現在、エレベーター内に乗載しているのは、葵と水谷の二人だけだった。葵は小さめの直方体で形成されたダンボール箱を両手に抱えていた。一方の水谷は相変わらずの微笑みを顔に貼り付けたまま、暇を持てあましている両手の内、左手はポケットに、右手は長々と伸びた白の顎髭を弄んでいた。二人は二人して、転々と変わりゆくデジタル数字に目をやりつつ、無言のままエレベーター内での時間を過ごしていた。
エレベーターは地下3階で止まった。しずしずと扉が開かれる。開かれた地下3階は、大した飾り付けもなされず、単に普通の廊下が広がっているだけだった。変わったところと言えば、どの階でも必ずと言っていいほど鼻腔を擽る、病院特有の消毒液臭が、ここでは全く感じられないことぐらいだ。水谷が先に飛び出すと、葵も続いて飛び出した。
葵は物珍しそうに、辺りを見渡した。
「へー。」
感嘆した声が廊下に漏れる。
「葵君は、ここ初めてだったよね。」
「はい。許可証がないとここには入れない規則ですから。」
「そうだよね。」
水谷の笑みが若干濃くなった気がする。鼻歌でも歌い出しそうだ。
「ここはね。なかなか変わっってるんだよ。なかなかね。」
「なかなかですか。」
「うん、なかなか。」
「気になりますね。」
二人が廊下を歩いてしばらく、観音扉の前に差し掛かった。扉の前にはきっちり制服で固めた警備員が一人パイプ椅子に腰掛けていた。片手には団扇を持っている。扇ぐ様子はなかった。「はい。」と水谷が懐からプラスチック板の許可証を取り出した。許可証は、警備員に手渡され、程なくあっさりと確認したのかしなかったのか分からない内に、また水谷の元へと返された。
受け取った水谷は何の躊躇もなく、観音扉を押して中に入っていく。続いた葵は、一応警備員に会釈を返したものの、何も返ってこない警備員にばつが悪いと、そそくさ教授の後を追っていった。
観音扉の向こう側は、先程まで二人が歩いてきた廊下とは同じようで、少しばかり奇妙に変わっていた。
医療器具で混雑している他の階に比べ、ここはやけにさっぱりとしたものだった。廊下自体はリノリウムの光沢ある白さが広がってはいるものの、ある部屋の前では、闇色に黒く、また奥に畏まった部屋の前では、やたらとボロボロに、ナイフのようなものを使って、切り刻まれていた。よくよく見れば、各部屋のドアの様子も様々なものだ。例えば、入り口から右手に4つ数えた部屋のドア。気味の悪い山羊の水墨画に、やたらと意味不明な呪文が山羊の周囲を囲んでいる。左側の6番手だろうか。小窓が木板で塞がれていた。
葵はそんな奇妙奇天烈な光景をただ惚けて眺めていた。
「葵君。」
「はい。」
「どう、ここ。初めての体験は。」
「ええ、ええ、何か異世界に紛れた感覚です。」
「・・・そうだね。」
立ち止まっていた水谷は再び歩き出した。周囲に目を配りながら、笑顔のまま、テクテクと先へ進んでいく。葵もとりあえずは水谷の後に付いていった。






「葵君、この地下3階は何だと思う。」
廊下の突き当たりにある、教授の秘密部屋らしき場所に入った際のことである。
教授の部屋に似つかわしくない、室内のシンプルな調度品を何となく眺めていた葵に、その質問は唐突だった。
質問の意図を酌もうとするものの、実際のところ何を言わせたいのかさえ、よく掴めないものだった。
「・・・分かりません。一体何なのか。」
葵は素直に、そう答えた。
「ふむふむ、・・・もう少し考えて貰わなきゃ、面白くないでしょう。」
「あっ・・・すみません。・・・・・・・・・すごく悲惨で痛々しい遺体専用の安置所みたいなものでしょうか。」
葵の回答を聞いた途端、水谷は微笑み顔をさらにクシャクシャに、声を上げ笑い出した。慌てて葵は、頬を赤らめ顔を俯く。
「ははは。いや、なるほどなるほど。君はやはり面白いな。」
「か、からかわないでください。」
「ははは。」
一頻り笑い終えた後、水谷はポケットからハンカチを取り出すと、適当に口元を拭った。
「で、結局、ここはどこなんですか。私に何を見せたいんですか。答えてください。」
「葵君、ここでそんな大声を出されちゃかなわんな。病院はどこでも規律正しくだよ。」
「・・・分かってます。で、それとこれとは別です。水谷教授、私の質問にちゃんと答えてください。」
水谷は両手を高々と掲げた。降参のポーズ。
「教授。」
「降参。参ったよ。いやいや、本当に。君の強引さには参った。じゃあ、今から君にここが何であるのか教えよう。君が今手元に抱えているダンボール箱。それを下に下ろして、・・・開けてみてごらん。」
葵は言われるがまま、ダンボール箱を下に下ろすと貼り付けてあるガムテープを引き剥がしにかかった。
「おお、力強い。」
教授の戯言になど耳を貸さず、葵はただがむしゃらに、すべてのガムテープを引き剥がし終えた。開かれたダンボール箱の中の荷物は、大半の物が梱包に包まれていて、それぞれに同一患者のものであろう一つの名前が記載されていた。
『大畑賢治』
至って感動もないまま、葵は隅の方に、目を移す。経済新聞が数紙、それに梱包に追いやられてるカルテが無造作に一つ。
「教授。」
「うん、見ていいよ。別に見てもね・・・」
カルテを取り上げると、葵はしばしそれに目を走らせた。
別段可も不可もない顔立ちの男だった。どこにでもいそうな普通のサラリーマン。そんな印象だった。さらりと視線を下に、羅列するドイツ語を読み込んでいた葵は、ふと中間辺りのところで視線を止めた。
「原因不明・・・」
さらに病状の記載された部位に目を通した葵は、読んでは頷き、読んではまた頷くといったことを何度となく繰り返した。
「葵君、どうですか。」
カルテをダンボール箱に戻した葵は、しばらくして教授の顔を見上げた。
「確かに、私の研究分野ではありますし・・・面白そうですけど・・・他にもいるじゃないですか。成野君とか、館脇さんとか、七多君とか・・・何で私だけなんですか。」
軽く困惑している葵に対し、教授は微笑みをにんまりと、葵の顔を真正面から見据えた。
「いや、君は本当に今までに類のないほどに、私のお気に入りだしね。本当に。そりゃもう抱きしめたいくらいにね。抱きしめさせては貰えないけど。・・・まあ、そんな有望な君に私の遊び場が、どんなものかぐらいは覗いて貰っても構わんだろうと思ってね。」
「・・・・・・・・・」
葵は少し顔を赤らめ、淡い栗色の髪を掻き上げた。
「・・・喜んで貰えたかな。」
「・・・・・・・・・はい。」
葵は水谷に深々と頭を下げた。
「じゃあ、ま、君も分かったと思うけど、ここはどんなとこだと思う?」
「ええ、若干の憶測を伴いますけど・・・私の専門、そしてカルテに記載されていた患者の病状、原因、さらには院内で、真密かに囁かれている噂の事項+αで私の希望も少し混じってますが・・・」
「うん、うん、いいよ。」
「ここは、精神科兼神経科神経症末期症状患者専用の病棟。・・・噂の44科・・・・・・・・・ですよね。」
「ですよ。」
教授は笑って、そう答えた。